スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by LOGPORT運営事務局 at

2014年05月09日

大和源氏

大和源氏の源流である源頼親は、藤原道長に仕える侍で、11世紀はじめに大和守に任ぜられた。だが、当時の大和国の大和平野(奈良盆地)北部は興福寺の勢力下にあり、頼親の拠点は大和平野南部が中心となった。国府は高市郡内にあったとされる。一方で大和国の南部といっても吉野川(紀ノ川)より南は修験道の根本であったため、頼親の勢力は高市郡から宇智郡の範囲に限られた。頼親は高市郡と宇智郡に私領を設けている(『前田本右記』)が、この高市郡越智庄と宇智郡宇野庄がのちの越智氏と宇野氏の起源となる。なお、源頼親と子頼房(加賀守)は興福寺と争い頼親は土佐国に、頼房は隠岐国に流されている(『扶桑略記』)。
頼房の子、頼俊(陸奥守)は、摂政家の要職にあり延久蝦夷合戦で活躍した。頼俊は栄山寺領を侵し、その所領を宇智郡から葛上郡に拡げ、その子である頼治は、大和国に居住し宇智郡を中心に一族の土着がはじまった。さらに頼治の孫、親治(名乗りは「宇野七郎親治」)は、保元の乱の顛末を描いた軍記物語『保元物語』に登場する。
源頼俊の外孫で、源師任(父、源師時)という武士が宇智郡に所領を有していたが、師任は頼俊から譲られた所領を興福寺に寄進した。しかし、興福寺の課役が厳しく、改めて金峯山寺に寄進するという二重寄進の結果になった。この頃、興福寺と金峯山寺は争っており、憤慨した興福寺僧兵が、金峯山寺を攻めた。師任は金峯山を下り、宇智郡に潜伏するが、これを知った金峯山寺衆徒は、師任を捕らえようと、1146年(久安2年)に宇智郡に乱入し、郡司藤原頼金と戦ったとされる(『本朝世紀』)。この後の動静は明らかではないが、金峯山寺勢力が宇智郡に浸透し、栄山寺領をも横領していた例証が残っている(『栄山寺文書』)。

成功の秘訣
  


Posted by hsvybt at 17:08日記